「欲望」を学べ、決して「譲歩」するな!

<『芸術闘争論』書評> 幻冬舎文芸PR誌「星星峡」書評頁より。
 

「欲望」を学べ、決して「譲歩」するな! 斎藤環
 
 村上隆は闘っている。何と? 自らの活動に対する無理解と。閉鎖的な日本のアート・マーケットと。欺瞞的な日本の美術教育と。海外で闘おうとしない若手アーティストたちと。だから本書のオビにはこうある。「闘いもしないで、闘うぼくのことを嘲っていたい人は嘲っていればいい」。そう、中島みゆき「ファイト!」を彷彿とさせるこの言葉が、なぜ書かれなければならなかったのか。
 村上はいまや、国際的に最も成功した日本人アーティストの一人である。個人制作のみならず、アーティスト集団『カイカイ・キキ(Kaikai Kiki)』を主宰し、芸術イベント『GEISAI』プロジェクトの運営に関わるなど、ゼロ年代以降の日本のアートシーンの活性化にも寄与してきた。二〇一〇年九月にはベルサイユ宮殿で作品展『Murakami Versailles』も開催されている。
 ところがこの展覧会が、歴史遺産を冒涜するものだとフランスの極右団体などから抗議を受けた。私が驚いたのは、この抗議に乗じたかのように、わが国のネット上でも村上批判が噴出したことである。表現規制にあれほど過敏なオタクたちが、この差別的ともいえる抗議に便乗するさまは、滑稽である以上に物悲しいものだった。
 思えば、村上隆ほど執拗に打たれ続けた「出る杭」は、近年あまり例を見ない。批判の構造は単純である。「村上隆は日本のオタク文化の上澄みをかすめとり、西欧のオリエンタリズムに迎合して大金をせしめた文化的詐欺師」。ほぼこの趣旨の単純な反復だ。そして、この執拗な誤解の構造に対する堂々たるアンサーが本書なのだ。少なくとも、私はそう読んだ。
 とはいえ、その内容は単なる反批判などではない。
 前作『芸術起業論』から、村上の主張は一貫している。それは「学ばなければ、自由になれない」ということだ。私の言い方でいえば「去勢されなければ、人は『個人』にすらなれない」ということでもある。
 だから村上は「大声」で語る。批判する前にもっと学べ、と。上から目線の「勉強し直してこい」という常套句ではない。学べ、と叫ぶかたわらで、村上は「こう学べばいいんだ」と私たちを導こうとする。その優しさに甘えた批判がまた出てくるであろうことを百も承知で。
 それゆえ本書の内容は、きわめて「実用的」でもある。
 たとえば「鑑賞編」で村上は、現代美術を鑑賞するための座標軸として(1)構図(2)圧力(3)コンテクスト(4)個性を挙げる。すでに日本のマンガがそうであるように、現代美術もきわめてハイ・コンテクストな表現だ。ならば、ピカソデュシャン以降におけるコンテクスト≒美術界のルールを知らずして、自由な鑑賞は成立しない。
 そもそも現代美術は、ジョゼフ・コスースやティエリー・ド・デューヴが指摘したとおり、自己言及的な言語ゲームの領域なのである。ゲームならばルールが要請されるのは当然なのだ。
 ついで「実作編」では、さきほど挙げた鑑賞のための座標軸に基づいて、村上作品の制作過程が臨場感たっぷりに記述される。視線の誘導ひとつとっても、村上作品がいかに周到な計算に基づいて作られているかが手に取るようにわかる。このくだりだけでも、パクリ云々の批判が消し飛ぶほどの「圧力」だ。
 彼の批判は美大の「自由神話」にも向けられる。自由に個性を発揮しなさい、という命令がいかに抑圧的に作用するか。それは、“強要された自由”が没個性的な作品しか生み出し得ないという逆説からも明らかだ。
 村上の提案は過激である。もはや美大はいらない。まず予備校で基礎的スキルを磨け。次いでUCLA的な教育のもとで、基礎を解体・再構築せよ、と。さらに、プロになるにはどうすればよいか、国際舞台ではどう振る舞うべきかといったアドバイスが、これでもかとばかりに具体的に記される。それらはすべて「シーンを作るため」、「世界のアートシーンへ日本人アーティストを一気に二〇〇人輩出させる」という、村上自身の野望のためなのだ。
 ある批評家が、アーティストのあるべき姿として、精神分析ラカンの言葉を引用した。自分の欲望にけっして譲歩しないこと、と。実はこの言葉は、村上批判の文脈でなされた引用だった。しかしいまや、われわれは村上隆こそが、おのれの野望に決して譲歩しようとしない表現者であることを知っている。皮肉にも先の批判は、そのまま最大級の賛辞に読み替えられるのだ。
 本書のもとになったのは、村上自身のツイッター上での発言や、USTやニコニコ動画での講義、それに対するレスポンスなどであるという。ノイズも哲学も平等に並ぶツイッターのTLこそは、この上なくスーパーフラットなコミュニケーション空間と言いうる。
 その空間が本書の母胎であるとすれば、村上にとってツイッターは間違いなく創発の契機だったのだ。ツイッターにいかなる創造性も期待できないと考えていた私の偏見を改めさせてくれたという点でも、本書との出会いは貴重なものだった。

朝日カルチャーセンター
2010-12-21 - pentaxx備忘録斎藤環さんブログ)