出でよ、日本の美術批評

美術手帖最新号、pixiv&チームラボ特集、、、の華やかさに隠れて、中原浩大氏のインタヴューが掲載されていた。久々の公式な場でのインタヴューに刮目して読んだ。感想は、日本の美術ジャーナリズムのレベルの低さは今も昔も変わらない、ということだった。久々に出て来ても可哀想な気がした。


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美術手帖最新号、中原浩大氏のインタヴュー:中原浩大氏は僕ら世代のトップランナーだった。彼の行いたかった事の本質は日本社会の本質的な『虚無の彫刻化』であったはずだ。しかしジャーナリズム、批評がそこに追いつかなかった。当時の美術批評は今よりひどくて西欧万歳。有名人万歳のみだった。


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彼の作品の白眉なモノはレゴを使った彫刻あたりからだ。日本人受けするもやもやした形状をマーケティング的に取り入れつつ(ここでのマーケティングは『売る』ための意味ではなく、受けるための意味にとどまる)日本での西欧式アートの着床不能状況のレポートを繰り返しし始めるのだ。


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後にそうしたフォームは「かめ座のしるし」http://bit.ly/mnPyiC と言う素っ頓狂な展覧会も企画されたりして話題になっていたし当時はそれが権威だった。(中原はこの展覧会には招聘されてはいないが、、、)


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中原浩大の弟子筋のヤノベケンジの登場により、中原の表現にある種の凄みが加わり始める。中原的曖昧な形状表現を『サブカル』という外皮で覆い込むヤノベの手はずに脅威を感じ始めたからだ。丁度そのヤノベの作品登場から半年を経て、私がこの業界にデヴューした。


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中原はそこからヤノベの造る造型物を中原なりにデコンストラクションさせ声をどんどん大きくして行き日本現代美術のインポテンスを訴え始めた。しかし、美術評論の現場は彼の表現の動機にしか興味をもてない。芸術的な教養が皆無であった為に気落ちするようなバカバカしい言葉しか用意出来なかった。


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もちろん僕自身も言葉は全く練れずにいたが、中原の行う行動と作品の全てに刮目し、その存在意義を否定する側として自分自身の作品を造り始めた。私の用意したフォームは「おたく」だった。しかし私自身は「おたく」その人ではない。故に「おたく」強化トレーニングを延々と施す為に奔走し始めた。


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自分自身の「おたく」補完計画に忙しく、中原の表現を言語化するという作業等する間も無かった。そうこうしているうちに、私自身と中原が同じグループショウで一緒になった展覧会を、後日「悪い場所」と言う発明をした美術批評家、椹木野衣のキュレーション「アノーマリー」展で相見える事となった。


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レントゲン芸術研究所という大森の倉庫を改造した、オーナー池内務の珍妙な趣味性がギャラリー全体に覆い尽くした大型ギャラリーを舞台に、中原、弟子のヤノベケンジ、伊東ガビン(当時コンピュータ系のライターだった)そして私、という布陣での展覧会であった。


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また、その中原と展示空間をシェアしたのは私で、私の戦略として、中原、ヤノベを迎え撃つ為に、虚無の装置として「シーブリーズ」というマシン形状の彫刻作品を創作する。


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この「シーブリーズ」という作品は後に黒沢伸氏の手引きによって金沢21世紀美術館に購入される事になる。


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アニーマリー展時の展示期間中の話し。。。村上の作品が中原作品展示場内に置かれるという状況を中原が聞きつけ、その作品が邪魔だ、どけろとレントゲンギャラリーにFAXで中原からオーナーへのメッセージも送られて来ていたりもした。


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中原はいらだっていた。何に対して。自らの崇高なインポテンスな芸術の理解者の不在に。ぽっと出の自分の劣化コピーと目される村上、ヤノベへの脚光に。自らの表現のエッヂのギリギリさの理解力の無さに疲れ切っていたのではないかと思われる。


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そこから中原の作品は一気に加速し始め、今考えても日本現代美術界の歴史の中での金字塔を打ち立てるような作品を造り上げる事になる。キャノンアートラボ http://bit.ly/iyKuKn でのグループ展での作品、中原浩大の作品「デート・マシン」(1991)だ。


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中原浩大の作品「デート・マシン」(1991)は、現代を予言するような作品でありかつ、徹底した虚無の具現化に成功した作品であった。なににおいて、現代を予言していたか、と言えば、結婚し平和な家庭を構築し、家族と言う物語を消費することしか出来ないこの日本の今を黙視していたと言えよう。


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四方幸子 http://bit.ly/jYOLFT のキュレーションした展覧会での事だった。/アートラボ第1回企画展(キュレーション)・開催期間:1991年06月 〜 1991年07月・開催場所:TEPIA ・出展者 コンプレッソ・プラスティコ、中原浩大、福田美蘭


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その後、ファルマコンというアキライケダギャラリーの仕掛けた日本式バブル経済型アートフェアに置いても、超大作の彫刻を発表したが業界からは無視された。今考えれば、20年を経た今、ウゴロンダローニが行っている、虚無彫刻の先鞭を切っていたのだ。だが、今、私が語るこの現在只今まで、

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この事実を語れる者はいなかった。話しを整理しよう。日本の美術ジャーナリズム、美術批評のレベルは20年前よりはマシかもしれぬ。しかし、低い事には変わりはない。それはオーディエンスを舐めて「どうせ知らんだろ」的に軽口を叩いてもバレない状況が続いているからだ。


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今月号の中原浩大へのインタヴューも昔を懐かしみ、ライターの顔不在であった事をここに記す。真面目に読んでいる読者もいる事をアピールし、ごまかしがあった場合には警笛を鳴らす者が世界の片隅にいる事を明示したい。


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若い頃、日本の美術評論家に批判を受けた。「蔡國強や柳幸典など海外で認められる作家は本物だが、日本で騒ぎを起こしている村上はそのうち消える」この批判は無意味だ。ポジションの解説。評論家の思考停止を表明する一言だ。だが、、、今現在も、全く同じ言説が展開している。


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ポジショントーク。私が最も嫌う日本美術界に未だに残る思考停止言語。昨日の中原浩大への言説は、実は、今もひろがる無根拠業界への提言の前哨戦なのだが、書き始めると6時間ぐらいかかりそうできっかけが掴めていない。


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